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それぞれのストーリー

伊藤 千賀子(Chikako Ito)

伊藤 千賀子(Chikako  Ito)

糖尿病研究のやりくり

所属

グランドタワーメディカルコート 理事長

 私が広島大学を卒業した時は同級生37人のうち女性は2人に過ぎなかった。現在は1学年の1/3以上が女性で、発言力も強く研究分野も選ぶ時代になり、社会で活躍する女性が多くなってきたことは間違いない。それだけに責任も大きく本気で仕事に取組まなければいけない時代となった。ここでは私の経験をお話しして後輩の女性医師の方々に少しでも参考になればと思う。

 広島大学を卒業後、第二内科に入局したが、研究などは思いもよらず、上の先生のお手伝いをする気持ちであった。教授の意向で内分泌研究グループに配属されて間もなく、教授から原爆被爆者の糖尿病について研究するようにと指示が来た。この教授の一言は正に青天の霹靂であった。広島や長崎で原子爆弾に被爆した人々に対する法律が昭和32年に制定されて健診が行われていた。研究とはいかにするものかも分からず、先輩の先生方も指導的な助言はない。くよくよしても始まらないと考え、先ず、「広島原爆被爆者健康管理所」を視察した。今から50年も前のことで、当時は白血病など血液疾患のスクリーニングを目的に健診が組まれていた。健康管理所の中でみたものは山積みされた10万枚の健診個人票で、血液一般、尿検査や血圧など少ない項目のデータがあった。どの様にして研究と称するデータを取り出し解析すればよいのかよく分からず糖尿病と関連するデータとして尿糖陽性率をみることにした。手伝ってくれる同僚の先生と二人で来る日も来る日も個人票を1枚1枚めくり、紙に正の字を書きながら3カ月弱で全ての個人票を集計して性・年齢別の尿糖陽性率を求めた。女性の尿糖陽性率は男性の1/3~1/4であることが明らかになり、当時は図らずも高い評価を受けた。これがきっかけとなって私はこの施設で糖尿病のcohort研究を行うことにし、ブドウ糖負荷試験(50gOGTT) のfollow-up研究に着手した。当時私は週2~3回訪れるパートの健診のための医師に過ぎなかった。今から考えると随分おおらかな時代であった。1969年からは併設されている広島市医師会臨床検査センターの部長で勤務し、翌年からは健康管理所の部長になった。新しい検査項目が開発されると必要に応じてOGTT時に追加し、1972年からはIRIの測定も開始した。1980年に突然WHOから75gOGTTが提唱された。日本人の75gOGTTのデータはどこにもないので、残念ではあったが、WHOの糖尿病診断基準を使わざるを得なかった。従来の50gOGTTと75gOGTTの相関を求めて50g法を75g法に換算することができた。OGTTも1980年から75g負荷に切り替えた。その後は眼底検査やHbA1c測定など多くの項目を追加した。

「2006.9.23 日本体質医学会の会長を務めた時の先生方と」
「2006.9.23 日本体質医学会の会長を務めた時の先生方と」

 多くの研究成果が得られたが、中でもOGTTの経過観察によって糖尿病発症過程とインスリン抵抗性の関連を明らかにすることができた。1982年のOGTT判定基準はWHOのそれを輸入せざるを得なかったが、1999年の糖尿病診断基準ではこのcohortのデータから日本人のエビデンスを得ることができた。また、1998年にHbA1c(NGSP) 6.5%はOGTT2時間値の200mg/dlに相当することを明らかにし、厚生労働省が1997年から報告している糖尿病実態調査に活用されている。2010年のHbA1c値を加えた新しい診断基準にもこの値が採用されたが、奇しくもこの値は欧米の主張するHbA1c(NGSP)値の基準と一致していた。これらの研究は得られたデータの測定値の均一化、データの保存に細かい配慮が必要であったが、この点はしっかり考え、勉強もして前に進んだ。これらの仕事を評価いただき、日本糖尿病学会賞(ハーゲドーン賞 2005)、吉岡弥生賞(2008)、日本糖尿病学会賞(坂口賞 2009)、日本体質医学会賞(2010)、遠山椿吉記念 健康予防医療賞(2014)、保健文化賞(2015)を頂いた。

 この様に仕事に打ち込むことができたのは実母が二人の子供たちの世話をして私を支えてくれたことが大きい。私も時間がある時は家事を手伝った。母は明治生まれの人で男の人には絶対に家事をさせてはならないし、おかずも一品は多くすべきと考えていた。子供二人の世話と家事を全て実母に任せることもできず、1980年頃から手伝ってくれる方をお願いして現在まで続いている。1988年に主人の父が亡くなり、間もなく母も脳梗塞で倒れて私の自宅に引き取った。初めての同居であった。寝たきりで、意識もはっきりしない母は2000年に亡くなるまで自宅で世話をした。循環器専門医の主人は1998年に急逝したが、子供たちが社会人になっていたことが救いであった。実母も脳梗塞で倒れ6年間自宅で世話をして2002年に亡くなった。これらの世話は私ひとりでは不可能で、手伝ってくださる方に感謝しながら14年間を過ごした。研究と家庭の両立は確かに大変であるが、ものは考えようで、プライバシーに固執すると他が見えなくなるので、まず、自分は何をしたいのかと考え、そのためにはどのようにすべきかを優先順位をつけ、可能なことからやってゆく。許容の範囲で人手を借りながら、日常生活を続けることが賢い選択ではないかと自分の経験を通して思う。

更新:2015年12月25日

※所属は掲載当時のものです

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